友引に葬式はダメ?その根拠、実はどこにもありません
2026/04/28
お葬式の日程を決めるとき、カレンダーを見ながら「あ、明後日は友引やから避けなあかんな」と言う方が、今もたくさんいらっしゃいます。
でも、これは事実として間違った思い込みです。
これは葬儀社の都合で言っているのではなく、歴史的にも、宗教的にも、根拠がまったくない話なのです。では、なぜこれほど広く信じられているのか。そこを今日は掘り下げてみます。
友引とは何か
友引は「六曜(ろくよう)」という暦の一つです。大安・仏滅・先勝・先負・赤口・友引の六種類が、カレンダーに繰り返し登場します。
この六曜はもともと中国で生まれました。日本に伝わったのは鎌倉時代ごろとも言われており、当初は「時間帯の吉凶を占うもの」として使われていました。仏教とはまったく無関係の、いわば輸入された占いの一種です。
面白いことに、明治政府は一時期、六曜を含む「迷信的な暦注」を禁止しています。民衆が迷信に振り回されることを問題視したのです。しかし禁止したところで人々の習慣は変わらず、その後も六曜は生き続けました。
「友引」という字が生んだ誤解
もともと友引は「共引(ともびき)」と書き、勝負事で決着がつかない日、という意味でした。特に葬儀に関係する意味など、どこにもなかったのです。
ところがこれとは別に、陰陽道に「友曳方(ともびきかた)」という考え方がありました。特定の方角に向けて何かを行うと、友に災いが及ぶとされる方角占いです。
「共引」と「友曳方」、読みがどちらも「ともびき」だった。それだけの理由で、時代の流れの中に二つが混ざり合い、いつの間にか「友引の日に葬儀をすると友を冥土に引き寄せる」という話ができあがりました。根拠があって生まれた話ではなく、読みが同じだった二つのものがたまたまくっついた、それだけのことです。
なぜ人は根拠のない話を信じてしまうのか
ここが今日の本題です。
人間は、原因のわからない出来事に出くわしたとき、近くにある「それらしいもの」に理由をくっつけようとします。お葬式のあと、家族の誰かが体調を崩したり、思わぬ不運が重なったりしたとき、「そういえば友引やった」という記憶が引っ張り出されてくる。因果関係などないのに、時間的に近かっただけで「原因」にされてしまうのです。
一方で、友引に葬儀をしてとくに何もなかった場合は、そのことをほとんど記憶に残しません。うまくいったことは流し、よくないことだけを結びつける。この非対称な記憶の働きが、迷信を「証拠のあるもの」のように見せてしまいます。
これは個人の問題ではなく、人間の脳がもともと持っている癖です。原因と結果のパターンをすばやく見つけることは、生き延びるうえでは有利に働く。ただその癖が、根拠のない俗習を何百年も生かし続けることにもなっています。
さらに日本には、「信じてはいないけれど、気になる」という特有の感覚があります。「迷信だとわかっている。でも、もし何かあったら後悔するかもしれない」。その「もしも」への備えとして、俗習を守る。理屈ではなく、保険として信じているわけです。
加えて、日本は「みんながそうしているから自分も合わせる」という同調の文化が強い。周囲が友引を避けているなら自分も避ける方が無難、という判断が働きます。これは個人の信念というより、集団の中での摩擦を減らす知恵とも言えます。
迷信が長生きする理由は、それが「正しいかどうか」ではなく、「みんなが信じているかどうか」で維持されているからです。
それでも気になる方へ
「頭ではわかっていても、やっぱり気になる」。そういう方もいますし、「うるさい親族がいて、友引だけはどうしても動かせない」という事情もあるでしょう。そういう場合は、一日ずらすことも含めて、一緒に日程を考えます。お気軽にご相談ください。
ただ、一つだけ知っておいてほしいことがあります。
仏教のお葬式というのは、故人をあの世へ送り出すための、とても深い意味を持った儀式です。読経には「どうかこの方が安らかな世界へ旅立てますように」という祈りが込められています。戒名には故人の人生を讃える意味があります。お焼香一つひとつにも、手を合わせる人の気持ちが宿ります。
友引かどうかより、そういうお葬式の本来の意味を、ご家族に感じてもらえる場をつくりたい。それが私たちの願いです。
天翔は、友引でもお見送りします
家族葬の天翔では、友引でもご葬儀を承っています。富田林市・河内長野・大阪狭山の火葬場も、友引を休みにしていません。安心して故人を送り出してあげてくださいね。
家族葬の天翔 代表 大西敬行

