なぜ日本人は、あんなにお骨を大事にするのか ——土葬から火葬へ、遺骨崇拝が生まれるまでの1300年——
2026/04/03
納骨についての記事を書こうとして、ふと気になったので、そもそもなぜ日本人はこんなにお骨を大事にするのかな? 火葬をして、お骨を拾って、骨壺に入れて、お墓に納める。当たり前のようにやっているこの一連の流れは、いつ、どこから来たのか?
葬儀の仕事をしながらずっと気になっていたので、少し調べてみました。わかったことを書いてみます。葬儀に携わる仕事をしてきて、自分でも興味深い発見が多数ありました。長文ですが参考になれば嬉しいです。
最初に驚いたこと——昔の日本人はお骨を捨てていた
調べ始めてすぐ、意外な事実に行き当たりました。
万葉集の時代、奈良時代の日本人には「遺骨を大切にする」という発想がそもそもなかったようです。それどころか、平安時代の京都では遺体が道端や野山にそのまま放置されていたといいます。鴨長明の『方丈記』にも、都の道端に死体が転がっている様子が生々しく描かれています。
藤原氏の埋葬地だった木幡(現在の宇治市)でさえ、火葬した骨は鴨川に投棄されていたと記録に残っています。あの権力の絶頂を誇った藤原氏でさえ、そうだったのです。
当時の意識を支配していたのは「触穢(しょくえ)思想」と呼ばれるものでした。死体や骨に触れることは「穢れ」であり、極力避けるべきだという観念です。律令制と陰陽道が組み合わさったこの価値観のもとでは、遺骨に触れること自体がタブーとされていました。
宗教学者の山折哲雄氏によれば「遺骨尊重に変わるのは11、12世紀ごろ」とのことです。つまり「お骨を大切に」という感覚は日本の太古からの伝統ではなく、ある時期から始まった比較的新しい習慣だったのです。
では、いつ、どのようにして変わったのでしょうか。
火葬は、もともとお金持ちの葬送だった
火葬が日本に伝わったのは飛鳥時代のことです。700年に僧の道昭が、703年に持統天皇が火葬されたのが最古の記録として残っています。
ただ、当時の火葬はごく一部の特権階級だけのものでした。人体を骨になるまで燃やすには大量の薪が必要で、高度な技術も要りました。庶民には到底手が届かない、費用と手間のかかる葬送だったのです。
奈良・平安時代になると皇族や貴族、僧侶の間では火葬が広まってきます。しかし庶民は依然として土葬が主流でした。儒教の影響もあり「身体を傷つけることは罪である」という考えから、遺体を焼くことに心理的な抵抗感を持つ人も多かったといいます。
「火葬できること」自体がステータスで、庶民には手の届かない贅沢な死に方——それが当初の火葬の姿でした。
転機は11〜12世紀——高野山とお骨の関係
遺骨に対する日本人の感覚が変わったのは、11〜12世紀のことです。
きっかけは高野山への納骨でした。1107年の堀川天皇の崩御に際して高野山に遺骨を納めるという風習が始まり、それが高野聖(こうやひじり)と呼ばれる遊行の僧たちによって全国の庶民へと広まっていきました。
高野聖たちは「お骨を高野山に納めれば、弘法大師・空海とともに極楽浄土へ往ける」と説いて回りました。この言葉が、それまで遺体を道端に捨てていた庶民の心を動かしたのです。
この変化の背景には浄土教の流行があります。法然・親鸞によって「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へ往ける」という教えが広まったとき、人々の来世への意識が大きく変わりました。「あの世」への希求が強まるほど、お骨は単なる残骸から「魂の依り代(よりしろ)」へと変わっていきます。
お骨を粗末にすることは、そこに宿る故人の魂を粗末にすること——そういう感覚がこの時代から生まれていきます。また日本古来の「祖霊信仰」——祖先の霊が子孫を見守ってくれるという考え——も重なって、「骨=故人そのもの」という独自の観念が形成されていったのです。
江戸時代——お寺と葬儀がセットになった理由
江戸幕府はキリスト教を禁じるため、すべての国民をどこかのお寺に所属させる「寺請制度(檀家制度)」を作りました。これにより、葬儀はすべてお寺が取り仕切るものになります。
それまで地域ごとにバラバラだった葬送の形が、全国一律に仏式へと統一されていきました。読経・戒名・位牌・骨壺——今私たちが「お葬式」として当たり前に思っているセットは、じつは江戸幕府の宗教政策が作り上げたものなのです。
禅宗において在家のための葬儀の方法が確立されたことも大きな役割を果たしています。修行中の僧侶向けの葬儀作法が在家信者にも応用され、やがて日本社会全体に広がっていきました。
明治時代——一度「火葬禁止」になった
ここで少し驚く話があります。
明治政府は神道を推進するにあたって、1873年に「火葬禁止令」を出しました。神道派が「火葬は仏教の葬法だから廃止すべきだ」と主張し、それが通ったのです。
ところがたった2年後の1875年に撤廃されました。急増する都市の人口を土葬で対応するだけの土地が、もうなかったからです。現実に負けた形です。
その後、火葬率は上がり続け、1915年には全国で36.2%。2015年にはほぼ100%になりました。わずか100年で、日本は完全な「火葬の国」になったのです。
火葬がお骨への執着を生み出した、という逆説
土葬では遺体は土に還ります。骨も溶けてやがて土になります。視覚的に「故人」が消えていく。
でも火葬は違います。燃やした後に残る白い骨は、誰が見ても「その人の形」をしています。脊椎、肋骨、喉仏——部位ごとに形が残る。その骨を箸で一本ずつ丁寧に拾い上げ、骨壺に納める。
この「拾う」という行為の中で、お骨は「故人がこの世に生きていた最後の物質的な証」へと変わっていきます。火葬という行為が、逆説的にお骨への執着を強めていった——そういうことではないかと思います。
東と西でお骨の扱いが違う理由
少し脱線しますが、これも興味深い話です。
東日本では火葬後にすべての骨を骨壺に収めますが、関西では一部だけ拾って残りは火葬場に置いて帰ります。だから関西の骨壺は東日本のものより小さい。私自身、大阪南部で仕事をしていますが、関西式の収骨が当たり前の世界で育ってきました。
この違いは「骨のどこまでが故人か」という感覚の差だと思います。浄土真宗の影響が強い西日本では「魂はすでに浄土へ旅立った。骨はただの抜け殻だ」という考えが根強い。東日本では「骨の一片一片に故人が宿っている」という感覚が強い。
仕事柄この差を肌で感じることがよくあります。
骨を噛む、という風習があった
さらに驚く話を見つけました。
愛媛・兵庫・愛知・新潟の一部地域では、火葬後のお骨を口に含む「骨噛み」という風習が近年まで存在していたといいます。俳優の勝新太郎は父親の納骨式で遺骨を食べ「これで父ちゃんはおれの中に入った」と言ったといいます。高倉健も母親のお骨を食べたと著書に書いています。
「故人を自分の体に取り込むことで、永遠に一緒でいられる」という感覚の極限形です。遺骨崇拝の根っこにあるものが、ここに剥き出しになっている気がします。
そもそも釈迦は、お骨についてどう言ったか?
ここで少し根本的な話をしたいと思います。
釈迦は死の直前、弟子のアーナンダにこう告げました。
「葬儀のことは町の人々にまかせて、お前たちはただ修行に専念しなさい」(『マハーパリニッバーナ経』長部第16経)
また、こうも言いました。
「私が説いた教え、制定した戒律、それらが私の死後、お前たちの師である」(同上)
そして最後の言葉は——「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ」(同上)
これらはパーリ語の原典経典『マハーパリニッバーナ経』(長部第16経)に記録されており、釈迦の死後100〜150年後、紀元前350〜320年頃に成立したとされています(インド学者オスカー・フォン・ヒンヌーバーの説)。仏典の中でも最も釈迦の肉声に近い部類です。
つまり釈迦が弟子に求めたのは「骨を大事にすること」ではなく「教えを実践すること」でした。
ところがその後、釈迦の遺骨(仏舎利)は8等分されて各地に納められ(『マハーパリニッバーナ経』同上)、さらに約200年後、古代インドを統一したアショーカ王によって8万4千の仏塔に再分配されました(『雑阿含経』巻22、『阿育王伝』巻1)。「8万4千」は「非常に多くの」を意味する象徴的な数字ですが、仏舎利信仰がインド全土に広まったことを示しています。
「骨より教えを」と言った人の骨が、仏教を世界に広める最大の道具になった。何とも皮肉な話だと思います。
なお仏舎利はその後、中国・朝鮮を経由して日本にも伝来します。806年には空海らが大量の仏舎利を持ち帰り、日本での仏舎利信仰が再燃しました(『続日本後紀』)。高野山への納骨文化の土台には、こうした長い流れがあったのです。
葬式仏教批判について——仏典から考える
「釈迦は葬儀に僧は関わるなと言った」という話が、現代の葬式仏教批判によく使われます。
この批判には正しい部分と不正確な部分があります。
正しい部分は、釈迦が出家修行者に「葬儀より修行を優先せよ」と言ったのは事実で、形だけの葬式仏教への批判としては根拠があります。釈迦は死の直前、弟子のアーナンダにこう告げています。「葬儀のことは町の人々にまかせて、お前たちはただ修行に専念しなさい」(『マハーパリニッバーナ経』長部第16経・紀元前350〜320年頃成立)。江戸幕府の寺請制度によって布教の必要がなくなり、葬式と法事だけで収入を得る構造が生まれたことへの批判は、この言葉に照らしても正当といえます。
ただ不正確な部分もあります。釈迦の言葉はあくまで「出家修行者への言葉」であり、「葬儀そのものが無意味だ」とは言っていません。同じ経典の中で釈迦は「四つ辻にストゥーパ(仏塔)を建てよ」とも述べており、人々が集い追悼する場の意義は認めています(『マハーパリニッバーナ経』同上)。また葬式仏教の起源を辿ると、鎌倉時代に法然・親鸞らの僧侶が「穢れた存在」として忌避されていた民衆の死に慈悲の手を差し伸べたことから始まっています。起源は金儲けではなく、慈悲でした(松尾剛次『葬式仏教の誕生』平凡社)。
「形だけの葬式仏教はどうか」という批判は正当だと思います。しかし「仏教と葬儀はそもそも関係ない」という結論は、歴史的に見て単純すぎると感じています。
遺骨崇拝はこれからどうなるのか?
最後に、個人的な見立てを書いておきます。
廃れる方向に向かっているのは確かだと思います。少子化・無縁社会化によってお墓の担い手がいなくなり、墓じまいは年々増加しています。散骨・樹木葬・手元供養を選ぶ方が増え、「自然に還りたい」という志向は従来の納骨の形と相容れません。
ただ、遺骨崇拝の根っこにあるのは宗教の教えではなく、「大切な人とまだつながっていたい」という人間の感情です。これは釈迦の言葉とも法律とも関係ありません。
お墓という形は変わっていくかもしれません。でも「故人の最後のかけらをそばに置いておきたい」という気持ちは、形を変えながら残り続けるのではないかと思っています。
ペンダントや手元供養が増えているのも、その感情が「お墓」という形から解放されつつある、ということなのでしょう。
主な参考資料・出典
山折哲雄『死の民俗学——日本人の死生観と葬送儀礼』岩波現代文庫
山折哲雄『日本文化の深層と沖縄』1996年
松尾剛次『葬式仏教の誕生』平凡社
中村元訳『ブッダ最後の旅——大パリニッバーナ経』岩波文庫
山崎元一『古代インドの文明と社会』中央公論社
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣
『マハーパリニッバーナ経』長部第16経(パーリ語原典 紀元前350〜320年頃成立)
『雑阿含経』巻22
『阿育王伝』巻1
この記事は「納骨っていつまでにしたらええの?」という記事を書こうとしたことがきっかけで書きました。納骨の時期や手元供養についての記事は近日公開します。
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家族葬の天翔 代表 大西敬行

