遠い国のニュースを見て思うこと
2026/03/09
イランとアメリカ、イスラエルの戦争のニュース。
はじめに攻撃されたイラン。
「怖い国」「危ない国」そんなイメージを持つ人も多いかもしれません。でも、少し歴史を知ると、見え方が変わってきます。
イランは、もともと「ペルシャ」と呼ばれていた国です。
紀元前から文明が栄え、詩や絨毯、建築など、世界をリードする文化大国でした。シルクロードの中継地として東西の文化を結び、独自の言語と誇りを持ち続けてきた。アラビア語ではなくペルシャ語を話し、アラブ諸国とは違う歴史と文化を歩んできた国です。
そして、実はとても親日的な国でもあります。日本製品への信頼は高く、「おしん」が繰り返し放送されるほど、日本の文化に親しみを感じてくれている。街を歩けば「日本人か?」と声をかけられ、歓迎されることも多いと聞きます。
では、なぜ今のイランは国際的に孤立しているのか。
話は100年ほど前にさかのぼります。
第一次世界大戦のころ、中東はオスマン帝国という大きな国の一部でした。その帝国が弱ったとき、イギリスやフランスといった欧米の国々が「戦後の領土を自分たちで分けよう」と秘密の約束を交わしました。
この約束が、現地の人たちの暮らしや文化、宗教をほとんど考えずに、地図の上で線を引くようなものだった。その結果、民族がバラバラに分断されたり、昔から対立する人々が一つの国に押し込められたりした。
中東の混乱の根っこには、こうした「外からの勝手な線引き」があると言われています。
イラン自身も、20世紀を通じて大国の干渉を受け続けました。石油をめぐる争い、政権への介入。そして1979年の革命以降は、宗教指導者が国を率いる体制になり、欧米とは距離を置くようになった。
一方で、イスラエルのことも考えます。
ユダヤの人々は、かつての大戦で600万人もの命を奪われました。故郷を追われ、家族を引き裂かれた歴史があります。
だからこそ、「自分たちの国を」「安心して暮らせる場所を」という願いがあったのだと思います。
ただ、人間というのは無情なもので、かつて傷ついた者が、別の場所で別の誰かを傷つけることもある。痛みを知っているから優しくなれる、とは限らない。人間は、民族はそう単純にはできていないのかもしれません。
巡り巡って関係のない子供や文化遺産が傷つき、終わりの見えない連鎖が続いていく。
無常。
宗教は、本来、人の心を支えるものです。
苦しいとき、悲しいとき、迷ったとき。信じるものがあることで救われる人は、世界中にたくさんいます。
ただ、その「支え」が「縛り」に変わってしまうこともある。
信じることを誰かに強制されたり、信じないことが許されなかったり。そうなると、本来の「心の安らぎ」とは違うものになってしまいます。これはどこかの国だけの話ではなく、歴史の中で何度も繰り返されてきたことです。
ニュースの映像の向こうにも、普通に暮らしている人たちがいます。
朝起きて、仕事に行って、家族とごはんを食べて、夜眠る。子どもの成長を楽しみにして、親の健康を気にかけて、友人と他愛ない話をして笑う。
そんな当たり前の暮らしが、大きな力に振り回されることがある。
自分では何も悪いことをしていないのに、生まれた場所や関係のない誰かの決定によって、人生が変わってしまう。歴史の中で関係のない誰かが引いた線が、何世代も関係のない人を苦しめることがある。
どこの国にも、パンを焼くお母さんがいて、宿題をする子どもがいて、仕事帰りにビールを飲むお父さんがいる。誰かを憎みたくて生まれてきた人なんて、いないはずなのに。
遠い国のニュースを見ながら、ふと思います。
大きな歴史の流れは、私たちにはなかなか変えられません。世界がどう動くかは、自分ではどうにもならないことばかりです。
でも、目の前の暮らしを大切にすることはできる。
朝、家族に「いってきます」と言うこと。 夜、「おかえり」と迎えること。 一緒にごはんを食べて、「おいしいね」と笑いあえること。 何気ない夕暮れに、胸いっぱいに空気を吸って「今日も一日終わっていくな」と思うこと。
当たり前すぎて気づかないけれど、それが続いていることは、実はとても幸せなことです。
世界が不安に覆われ、揺れているときこそ。
画面の向こうの誰かも知らない人が、今日一日を穏やかに終えられますように。そんなことを思いながら、テレビを見ていました。

